ベクトル空間

体の拡大を勉強する前に,ベクトル空間を軽く勉強します.線形代数を,曲がりなりにも勉強済みであることが望ましいです.『勉強はしたけど曖昧な部分があるなぁ』という人はこれを機会に復習してみてください.既によく分かっている人は,飛ばして次の記事へ進んでも大丈夫です.

ベクトルの演算

幾何ベクトルの演算には,次のような著しい特徴がありました.図では \bm{x}, \bm{y} をベクトル, \lambda をスカラーとしています.

  1. 和に関して可換であり,ベクトルの和はベクトルになる.
  2. ベクトルのスカラー倍はベクトルになる.
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さらに,スカラー倍とベクトルの和に関して,分配則がなりたちます.

3. \ \ \ \lambda (\bm{x} + \bm{y}) = \lambda \bm{x} + \lambda \bm{y}

この三つの性質は,あとで引き合いに出しますので覚えておいて下さい.

ベクトル空間

ひとまず前節のベクトルの図は忘れて,ベクトル空間の定義に移りましょう.ベクトル空間とは,集合です.ただの集合ではなく,集合の元 a,b,c の間に次の 1.10. の演算規則がなりたつ集合です.以下,ベクトル空間を V と書き, V の元を x,y,z,... のようにアルファベットで表わします.敢えて太字で書くことはしません.また, V とは別に何かスカラーが必要ですが,スカラーはギリシャ文字で \lambda , \mu ,... のように書くことにします.ベクトル空間を線形空間と呼ぶこともあります.

【ベクトル空間の公理】

  1. a,b \in V \ \Longrightarrow \ a+b \in V (加法が閉じている)
  2. a+(b+c)=(a+b)+c (加法の結合則)
  3. a+b = b + a (加法の交換則)
  4. 加法の零元 0 が存在する. a+0=0+a=a
  5. 加法の逆元が存在する. a+(-a)=(-a)+a=0
  6. 任意のスカラー \lambda に対して \lambda a \in V (スカラー積が閉じている)
  7. \lambda (\mu a)=(\lambda \mu)a (スカラー積の結合則)
  8. スカラー積の零元 0 が存在する.
  9. スカラー積の単位元 1 が存在する.
  10. \lambda (a+b)=\lambda a + \lambda b (スカラー積と加法の分配法則)

十個の条件は,ある有名な教科書に出ていたものをそのまま写しました.十個もあると覚えるのが大変ですが, 1.5. はベクトル空間が『加法に関して可換群になること』, 6.9. は『スカラー積に関して可換群に似た構造になること』を,個別の条件で表わしているだけです.そこで 10 個も書く代わりに,次の 3 つの条件にまとめた方が覚えやすいと思います.

  1. 加法に関して可換群にある.
  2. スカラー積に関して可換群に似た構造になる.
  3. 加法とスカラー積に分配則がなりたつ.

だいぶすっきりしましたが,『可換群に似た』と書いた二番目の条件の意味が釈然としないと思います.群の演算は,群の元だけで閉じていましたので,これを群という集合の内部で定義できる演算という意味で, 内部算法 と言います.一方,ベクトル空間のスカラー積の演算に出てくるスカラー自体は,ベクトル空間の元ではなく,何か他の体(有理数体,実数体,複素数体など)の元です.スカラー積は,ベクトル空間の元と,他の集合の元との間の演算ですから,これは 外部算法 です.そういうわけで,ベクトル空間はスカラー積に関して群ではありませんが,『単位元がある』『逆元がある』など,群に似た演算規則を持っていますから,便宜的に群の考え方を借りてきて,上の 1.3. のように覚えた方が,ずっと意味が明快です.

さて,次の3つの条件を満たす構造を体と呼ぶのでした.

  1. 加法に関して可換群にある.
  2. 乗法に関して可換群である.
  3. 加法と乗法に分配則がなりたつ.

ベクトル空間は,スカラー積の演算が外部算法であるため惜しくも体ではありませんが,ベクトル空間と体とは,非常に良く似た構造であることに気づきます.

スカラー積の演算に使うスカラーの属する体を F とするとき,スカラーの出身を明示するために『 F 上のベクトル空間』と言うのが正確です. F の種類によって,実線形空間,複素線形空間などと呼び分ける場合もあります.

[*]ベクトル空間と体との違いは,ベクトル空間のスカラー積演算が外部算法である点でした.ベクトル空間を『ちょっと外にはみ出した体(のような構造)』と見ておくと,このあと拡大体をぐっと理解し易くなります.拡大体を勉強したあと,もう一度この記事を読んでみて下さい.
[†]筆者は大学一年生のとき,試験前に急いでベクトル空間の条件 1.10. を個別に全部覚えようとして覚えきれず,意味も分からず,大混乱を起こしました.当時はベクトル空間の意味も分かっていませんでしたので『なんでこんなに細かい条件がたくさんあるんだ!』と憤ったものです.予め群や体を勉強しておけば,ずっと見通し良く見えたのに,と今更ながら思います.可換群を習っていない学生のために,その教科書ではそのような書き方をしたのでしょうが, 10 個もの条件を無機質に並べて,普通の学生が意味を理解できるとは到底思えません.抽象的な対象でも,しっかりとしたイメージを持ち,頭を整理しながら進んでいくことが大事だとつくづく思います.

ベクトル空間の演算規則とは, 最初に見た幾何ベクトルの3つの演算規則を抽象化したもの に他なりません.前節の二つの絵に,全ては集約されています.その意味で,幾何ベクトルのイメージは,ベクトル空間の定義や演算規則を覚えておくのに大いに役立ちます.

しかし,ベクトル空間は広く抽象的な概念ですから,一般にベクトル空間の元は,関数であったり,何かの演算子や変換であったりと,およそ幾何ベクトルのイメージとは懸け離れたものでも良いわけです.一次独立,一次従属,基底など,幾何ベクトルのイメージが理解を助ける概念も多々ありますが,いつまでも幾何ベクトルのイメージに固執していると,だんだん厳しくなって来ると思います.むしろ,ベクトル空間のベクトルと幾何ベクトルとは,名前は似ていても別のものであると考えた方が,この先の段階では混乱が少ないかも知れません.幾何ベクトルのイメージ(矢印?)は,あくまで定義や,幾つかの概念や定理を覚えるのに役立てる程度に留めておいたほうが良さそうです.

ベクトル空間の元を単に『ベクトル』と呼ぶ人もありますが,そういった文脈では,『ベクトル』とは単にベクトル空間の元を意味しているだけですので,幾何ベクトルと混乱しないように注意してください.

[‡]そのうちベクトル空間の基底,関数のフーリエ展開,グラム=シュミットの直交化法などを勉強すると,関数と幾何ベクトルが似て思えてきたりもします.しかし,最初のうちは,幾何ベクトルのイメージに引きづられないようにする方が混乱が少ないと思います.私自身は,ベクトル空間の元を単にベクトルと呼ぶのは,どうも通ぶっているように聞こえて,あまり好きになれません.

次のような,体 F 上の数を係数とする多項式の全体はベクトル空間になります.

f(x)=a_{0}x^{n}+a_{1}x^{n-1}+...+a_{n-1}x+a_{n} \ \ (a_{i} \in F)

特に, x の最高次数が n のとき, n 次元ベクトル空間になります.このような多項式の集合が,ベクトル空間の定義を満たすことを,実際に確認してみて下さい.また,この例の F のように多項式の係数 a_{i} を含む体を 係数体 と呼ぶこともあります.

ベクトル空間に関する基本的なこと

ベクトル空間上の演算や写像を詳しく調べる分野を線形代数と呼びます.線形代数では,行列やベクトルが非常に重要ですが,それは行列がベクトル空間の代数構造を表現するのに最適だからです.行列の算法や写像はベクトル空間の構造を反映しており,また逆に,行列の演算や写像を調べればベクトル空間のこともよく分かります.

しかし,ベクトル空間の表現は行列だけではありませんから,『線形代数=行列の勉強』と思ってしまっては視野を狭めます.(たまに,そのような人を見かけます.)せっかくなので,代数構造そのものを楽しみましょう.ここで使う線形代数の知識も,ベクトル空間の抽象的な構造に関するものばかりです.

以下に触れるのは,基本的な事柄だけですので,証明は省きます.詳しく知りたい人は,線形代数の教科書などを参照してください.概念の理解は,幾何ベクトルをイメージすれば難しくないと思いますので, もう一度ベクトル1もう一度ベクトル2もう一度ベクトル3 などを適宜参照してください.

一次従属と一次独立

F 上のベクトル空間 V の元 x_{1},x_{2},...,x_{m} が次式を満たすとします. F の元であるスカラーを 係数 と呼びます.

a_{1}x_{1}+a_{2}x_{2}+...+a_{m}x_{m}=0 \tag{1}

このとき,一つでも非零の係数 a_{i} \ (\in F) が存在するなら, x_{1},x_{2},...,x_{m}一次従属 だと言います.逆に,式 (1) が満たす係数には a_{1}=a_{2}=...=a_{m}=0 以外ありえない場合, x_{1},x_{2},...,x_{m}一次独立 だと言います.

基底

F 上のベクトル空間 V の元を,全て適当な係数 c_{i} によって次のような形( 線形結合 といいます)によって表わすことができるとします.

c_{1}{\sigma }_{1}+c_{2}{\sigma}_{2}+...+c_{n}{\sigma }_{n} \ \ (c_{i} \in F,{\sigma}_{i} \in V)

このとき, {\sigma}_{i}V基底 と呼びます.基底の取り方は一意的ではありませんが,基底の個数(この場合 n )は一意的です.これをベクトル空間の 次元 と言います.次元を {\rm dim}V のように書くことがあります.上の例では {\rm dim}V=n です.

個々の基底は一次独立です.逆に, n 次元ベクトル空間で,もし一次独立なベクトルを n 個選べれば,それらは基底になります.

線形写像

F 上のベクトル空間 V から, F 上のベクトル空間 V' への写像 T を考えます.

T: \ V \ \rightarrow \ V'

この写像が次の性質を満たすなら,これを 線形写像 と言います.

T(x+y)=T(x)+T(y) \ \ \ (x,y \in V, T(x),T(y) \in V')
T(cx)=cT(x) \ \ \ (x \in V, c \in F)

また, T(x)=0 となる V 上の点 xT ,もしくは カーネル と呼び, {\rm Ker}T のように書きます.また, T(x) によって V の元が移る先の, V' の部分集合を と呼び, {\rm Im}T のように書きます.図で考えると意味が分かりやすいと思います.

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