五次方程式

まず,体 F 上の五次方程式 f(x) を考え,その最小分解体を E とし,ガロア群 \cal G \it (E/F) を考えましょう.ここで, \cal G \it (E/F) \sim S_{5} が言えますので, ガロアの定理 に基づいて, S_{5} が可解群であるかどうかを示すことで,方程式の可解性を判断することが出来ます.

[*]ここで,特殊な場合には S_{5} そのものではなく, S_{5} の部分群と \cal G \it (E/F) が同型ということがあると思いますが,一般の \cal G \it (E/F) \sim S_{5} の場合を証明しておけば十分です.証明したいのは,『全ての五次方程式は解けない』ではなく( x^{5}=1 のように解ける五次方程式はいくらでもあります),『五次方程式は一般には解けない』だからです.

theorem

【アーベルの定理】五次以上の対称群 S_{n} \ (n \ge 5) は可解群ではありません.

商群 S_{n}/A_{n} は位数が 2 で,可換群になります. S_{n} \supset A_{n} の間には,これ以上 S_{n} の部分群は入りませんし,定理の証明には, A_{n} \ (n \ge 5) が可解群ではないことを証明すればよいことになります.これは以下に示します.

theorem

五次以上の交代群 A_{n} \ (n \ge 5) は可解群ではありません.

proof

この定理の証明には, 交換子群 を利用して考えてみます.一般に,ある有限群 G の交換子群 D(G)G の正規部分群になり,交換子群の交換子群 D(D(G))=D^{2}(G)D(G) の正規部分群になります.(ただし, D(G) \ne G とします.)このようにして, G,D(G),D^{2}(G),... を考えていけば,これは正規部分群の組成列 G \supset D(G) \supset D^{2}(G) \supset ... に対応しており, G を有限群としたことから, D^{m}(G)=e を満たすある有限の整数 m が存在することが予想されます. 交換子群 で紹介した定理により,この組成列から作った商群 D^{i}(G)/D^{i-1}(G) は可換群になりますので,このような m を持つ交換子群の組成列を考えることが出来る場合, G は可解群になります.逆に言えば, G が可解群にならないのは, G = D(G)=D^{2}(G)= ... となる場合です.さて, 交換子群 で考えた最後の定理を使うと, A_{n} \ (n \ge 5) では任意の自然数 k に対して, D^{k} (A_{n})=A_{n} が成り立つことになり, A_{n} は可解群ではないと言えます.■

[†]交代群 A_{n} は, n=4 の場合を除いて単純群になります. n=1,2,3 の場合は,手計算で実際に確かめて単純群であることを確認することが出来ます. n=4 の場合に正規部分群があるのは, 四次方程式 で見た通りです. A_{4} が非可換群であるにも関わらず四次方程式が解けるのは, A_{4} には 四次方程式 で見たように A_{4} には正規部分群 N があり,その商群 A_{4}/N が可換群となって, A_{4} が可解群になるためです. n=4 は,交代群が正規部分群を持つ,極めて特別な例外であることを認識しておきましょう.

このようにして, S_{5} は一般には可解群ではないことが示されましたので,五次方程式を代数的に解くことは,一般には不可能であることが分かりました.これにて,ガロア理論はひとまずお仕舞いです.ここまで読んでくださった読者の方々,お疲れ様でした.そして,ありがとうございました.m(_ _)m

ガロアの人となり

最後に,ガロア理論にその名を残す,ガロア( \text{Evariste \ Galois \ (1811-1832)} )の人生に軽く触れておきます.ガロアの劇的な人生は,さまざまな本や記事で詳しく紹介されていますので,どこかで読んだことがある人も多いと思いますし,わざわざ私( {\rm Joh} )が書かなくてもよいようにも思いますが,せっかくガロア理論が一区切りしたので,覚え書きとして書いておこうと思います.

パリ郊外の ブール・ラ・レーヌ に生まれたガロアは, 12 歳までは母親にラテン語やギリシャ語などの教育を受けました.父は地元で市長に選ばれるなどの名士でしたが,両親とも数学が得意だったという話は伝わっていません.この時代に生きたフランスの科学者は,多かれ少なかれフランス革命とそれに続く政治的混乱,そしてナポレオン戦争に巻き込まれていますが,ガロアがリセ(フランスの高校に相当)の学生のときナポレオンが失脚し,ルイ 18 世が復位し,それに対して反乱を起こした同級生たち 40 人が放校されるという事件も起きています.両親とも熱心な共和主義者でしたが,この事件で,ガロア自身も封建的な勢力に大きな憤りを感じ,王政に強く反対する政治思想を強めていきます.

[‡]幾何学者のポンスレ \text{(Jean Victor Poncelet (1788-1867))} ,ブリアンション( \text{Charles Julien Brianchon (1783-1864)} ),ジェルゴンヌ( \text{Joseph Diaz Gergonne (1771-1859)} )などは祖国防衛戦争,スペイン内乱,ロシア遠征などに従軍していますし,ラプラス( \text{Pierre-Simon Laplace (1749-1827)} )は政治家としてナポレオン時代に入閣しています.化学者のラボアジェ( \text{Antoine Laurent Lavoisine (1743-1794)} )はギロチンで処刑されてしまいました.
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ガロアの有名な肖像.研ナオコみたいだ.

リセにおけるガロアの成績はまあまあでしたが,修辞学の成績が足りなかったために留年を言い渡されます. 1827 年のことです.少々ふて腐れたガロアは,それまで興味の無かった数学の講義に出てみることにしました.(この数学の授業は,あまり優秀な生徒が取る科目とは思われていませんでした.)ところが,ここでガロアは教師も驚愕するほどの数学の才能を示し,その非常な天才を認められるところとなります.ガロアは,三年分の教科書をわずか二日で読破し,しかもその内容を全て理解してしまったということです.翌年,ガロアはエコール・ポリテクニクの入試に失敗し,地元ブール・ラ・レーヌに戻って数学の研究に没頭します.地元でガロアは,リシャール( \text{Louis Paul \'Emile Richard (1795-1849)} )に師事しますが,自分勝手に研究を進めていたようで,実際,リシャールの名前が現在までに知られている理由は,ガロアの先生で,ガロアに理解を示した人であるという事実によるものです.

[§]リシャールは,わざわざソルボンヌ大学に聴講に行ったりして,生徒達に最新の数学の話題を伝えようとするような熱心な教育者でした.リシャールによって才能を伸ばされた数学者には,エルミート( \text{Charles Hermite (1822-1901)} ),セレ( \text{Joseph Alfred Serret (1819-1885)} )などがいます.教育者の役割も重要です.

翌年も,エコール・ポリテクニクの入試に失敗し,地元ブール・ラ・レーヌのエコール・ノルマルに進むことになりました.高校の卒業試験で面接した文学の教官は,『ガロアにはほとんど知性が感じられなかった』と酷評しています.ガロアは相当な口下手だったようですが,他人からは,そのように見えていたのでしょう.

[¶]ガロアが二回も入試に失敗した原因は,面接で簡単すぎる問題を出した試験官に腹を立て,黒板消しを投げつけたせいだとか(面接官の顔面に命中!),熱心な共和主義者であったガロアの政治的な主義によるものだとか,色々言われています.また,ガロアの父親が二回目の受験日直前に自殺してしまい,その精神的ショックが響いたということもあるかも知れません.

この頃,ガロアはルジャンドル (\text{Adrien-Marie Legendre(1752-1833)}) の書いた幾何学の本に感銘を受け,また,ラグランジェ( \text{Joseph-Louis Lagrange (1736-1813)} )の書いた方程式の可解性に関する論文を読んだりしています.ガロア理論のアイデアは,ラグランジェの論文を読んだ直後にまとまったという話もあります.また連分数に関する論文を投稿し,引き続いて代数方程式に関する論文も投稿しますが,これはアーベル( \text{Niels Henrick Abel (1802-1829)} )の論文の域を出ていないことを査読者のコーシー \text{(Augustin Louis Cauchy (1789-1857))} に指摘され,不明瞭な点もあるという理由で受理されませんでした.また,コーシーはガロアの論文を紛失してしまい(恐らく,高校生の書いた論文ということで,真面目に処理しなかったのでしょう),これらの論文の行方は曖昧になってしまいました.その後,コーシーのアドバイス通りに書き直された論文を,ガロアはパリの科学アカデミーの数学賞を狙って投稿しますが,運悪くアカデミーの事務をしていたフーリエがその直後に死んでしまい,この論文も曖昧なまま行方不明になってしまいます.そして, 1830 年の数学賞は,アーベルとヤコビ( \text{Carl Gustav Jacob Jacobi (1804-1851)} )に与えられています.

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ガロアのもう一枚の肖像.あまり面接で好印象を残しそうもない.

この頃,フランスではまたもや政治的な事件が起こりました. 1830 年七月の 七月革命 によって,ナポレオン戦争後に復活していたブルボン王朝二代目のシャルル十世はオーストリアに亡命し,市民派のオルレアン公ルイ・フィリップが後を継ぎましたが(七月王政),このとき,エコール・ノルマルの学生達が反乱を起こそうとした件に関連してガロアは放校され,共和派(つまり王政に反対する)の巣窟であった国民軍砲兵隊に参加します.国民軍砲兵隊は自由主義者の巣窟として,以前から王党派からは目をつけられていましたが,砲兵隊の仕官の一部が叛乱計画の容疑で逮捕され,それを機会に国民軍砲兵隊は新王ルイ・フィリップに解散させられます.容疑者の士官達が,その後無罪評決を受けて釈放されたとき,ガロア達は禁止されていた国民砲兵隊の制服を着て集まり,抜き身のナイフを持ちながらルイ・フィリップに乾杯(つまり王を呪う行為)したということです.このため,ガロアは刑務所に入ることになります.もっとも,この件に関しては弁護士や友人の努力によって無実となったのですが(若いガロアに,裁判官も同情したのかも知れません),ほどなく共和主義者の集会が予定されているという情報に際して,危険思想者としてマークされていたガロアは,微罪で予防拘禁されることになりました.(これは,日本の警察もよくやる手ですね.)

その後,刑務所内にコレラが流行したため,ガロアは他の刑務所に移されますが,そこの刑務所付外科医の娘と恋に落ちました.ガロアは 1832530 日,わずか二十歳で決闘に斃れますが,決闘の原因は,この恋人を巡るものと言われています.ただし,決闘相手はガロアを付け狙っていた王党派の差し金とも言われており,真実はいまだに謎です.ガロアの人生はドラマチックに誇張されることが多く,様々な陰謀説もあるようです.いずれにせよ,この医者の娘はスキャンダルの耐えない奔放な人で,ガロアの人生を決定的に狂わすきっかけになったことは確かです.ガロアは決闘前日,恐らく自分が勝てないことを悟ってか,群論に関する新しいアイデアを書き綴った長大な手紙を,友人のシュヴァリエに宛てて書きます.手紙の余白には,『時間がない!時間がない!』と,絶望的に書き込まれています.

[#]この手紙の内容も誇張されることがありますが,ガロアがそれまでに書いていた論文の内容を,それほど大きく越えるものではなかったようです.それでも,当時の代数学を大きく飛躍させるほどの内容が詰め込まれていたことは確かです.

決闘は 25 歩の距離から拳銃で行われ,腹部を打ち抜かれたガロアは,その場に倒れました.相手側はもとより,ガロアの介添え人までがガロアをその場に放置したため,翌日,農夫が発見するまで,ガロアはその場に置き去りにされていました.発見が早ければ,一命を取り留めた可能性もあります.ガロアの最期の言葉は,慌てて駆けつけた弟に対して言った,『泣くな.二十歳で死ぬには,勇気が要るもんだ.』だと言われています.

ガロアの死後,ガロアの兄はガロアの論文をヤコビやガウス( \text{Karl Friedrich Gauss (1777-1855)} )に送りました.彼等に論文を見て貰うことは,生前からガロアが強く望んでいたことでしたが,彼等がガロアの論文を読んだという記録は残っていません.忙しくて読む暇が無かったのか,少し読んだとしても意味が分からなかったのかも知れません.(内容の先進性もさることながら,ガロアの文章や論文の書き方は,読みやすいものではなかったようです.)ガロアの論文を初めて評価したのはリュービル( \text{Joseph Liouville (1809-1882)} )で,方程式の可解性を論じたガロアの理論をガロア理論と名付けたのもリュービルです. 1846 年のことでした.

[♠]フランス語で gallois とは『ウェールズの』という形容詞です.(英語の Welsh に相当.) l が一個多いですが,ガロアの先祖はウェールズ人だったのでしょうか?誰か,ガロア家の由来をご存知の方はご一報ください.