軸性ベクトルと極性ベクトル

ベクトルには軸性ベクトルと極性ベクトルという二種類があります.

右手系と左手系

二つのベクトル \bm{A},\bm{B} が下左図のようにあるとします.しかし,反対側に回って後ろから見れば右図のように見えるはずです.(三次元ベクトルだとしています.)

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見方によって左右の関係が逆転していますから,本質的に \bm{A},\bm{B} のうち『どちらが右でどちらが左か』は決められません.

もう一本ベクトルを増やして,3本で考えるとどうなるでしょうか.左図の関係にあるベクトル \bm{A},\bm{B},\bm{C} をどのように回しても,ひっくり返しても・・・,右のようにはなりません!!

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左図と右図の関係は,ちょうど鏡に映したときの関係になっており,回転や平行移動による座標変換で入れ替えることは出来ないのです.基底ベクトル \bm{x_{1}},\bm{x_{2}},\bm{x_{3}} を,次左図のように取った系を 右手系 ,次右図のように取った系を 左手系 と呼びます.

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名前の由来は,親指から順に 1,2,3 と番号を振り,それぞれ直交するようにパッと開いたとき,親指,人差し指,中指が向く方向だからだということです.こんな名前を,誰が最初に思いついたのでしょうか.

[*]立体的な構造をした分子には,鏡像体と言って鏡に映したように立体配置が反転したものがあり,D体とL体などと呼ばれています.ちょうど右手系と左手系のような感じです.体内でタンパク質の合成に生成されるアミノ酸は,ほとんどがL体です.また,美味しいと感じる味の素はL体(L−グルタミン酸)で,D体(D−グルタミン酸)は苦く感じてしまうそうです.数学的には左右が逆なだけですが,どうやら体内では別の物だと思われているようです.生物は不思議です.
[†]たまに,番号は親指から振るのか,中指から振るのか忘れてしまう人がいます.ピアノを練習したことがある人なら,親指から小指に向けて順番に 1,2,3,4,5 と番号が振ってありますから,ピアノと同じと覚えておけば良いでしょう.バイオリンでは人差し指が 1 ですが,何にせよ,たいていの楽器では親指側の指に若い番号が振られています.

もう一つの覚え方は, \bm{x_{1}} から \bm{x_{2}} に向けてネジ回しを回したとき,ネジの進む方向が \bm{x_{3}} 向きなら右手系だというものがあります.普通のネジ(右ネジ)は右に回すと進みます.こんな覚え方も,ネジ回しを使ったことが無い人には想像できないですよね.よく覚えられない人は,一度,おうちの壊れた本棚でも直してみましょう.

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[‡]昭和初期,まだ街灯が普通の電球だった頃,家の電球が切れると街灯から電球を盗む人が多かったため,街灯の電球は左ネジに改められました.あまり関係ない豆知識でした.

外積の向き

ベクトルの外積の向きは,座標系が右手系か左手系かによります.たいていの人は右手系に慣れていることでしょう.慣用に従って,『物理のかぎしっぽ』でも特に断らない限りは右手系だけを考えます.

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大事なのは,外積の向きは私達が人為的に定めた約束事である,という点です.

軸性ベクトルと極性ベクトル

右手系と左手系は,回転や平行移動による座標変換で入れ替えることは出来ない,ということでしたが,どれか基底の向きを逆にしてしまうような変換で移り変わることができます.たとえば (\bm{x_{1}},\bm{x_{2}},\bm{x_{3}}) \ \Rightarrow \ (\bm{x'_{1}},\bm{x'_{2}},\bm{-x'_{3}}) という変換を考えると, \bm{x_{3}} だけ向きが逆になります.これは \bm{x_{1}},\bm{x_{2}} の張る平面を境に,鏡写しに向きを逆にした変換だとも考えられますので,右手系を左手系に,左手系を右手系に移します.

[§]このように座標系の一成分だけ符号を逆転させる変換を鏡像変換と呼びます.成分全ての符号を逆転させる変換を空間反転と呼びます.鏡像変換や空間反転によって,右手系⇔左手系は入れ替わります.

さて,座標系の基底を右手系から左手系に,もしくは左手系から右手系に変換したとき,ベクトルの向きも一緒に変わってしまうものを 軸性ベクトル といいます.力のモーメント,角速度などは軸性ベクトルです.一般に,二つのベクトルの外積の向きは,座標系を右手系にとるか左手系に取るかによって変わりますから,外積の形で定義される物理量は全て軸性ベクトルになります.

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座標系の取り方に応じてベクトルの向きも変わってしまうということは,座標系からの見え方,すなわち ベクトルの成分は変わりません .観測者と一緒にベクトルも動いてしまうわけです(上図).軸性ベクトルの向きは,物理的にその向きに何か実体があるのではなく,計算の便宜のために座標系に従って決められたものと考えて良さそうです.軸性ベクトルのことを 擬ベクトル ( pseudo-vector )とも呼びます.

[¶]ベクトルことはじめ で強調したことですが,座標系の取り方は観測者が視点を変えているだけで,ベクトルそのものは座標系とは関係なく存在するはずです.ですから,本当のベクトルなら,見る場所を変えれば(ベクトルそのものは動かないのですから)見え方が変わるはずです.ところが,軸性ベクトルは観測者と一緒に動いてしまいます.これは,本当にそこに『存在している』ベクトルなのではなくて,観測者が定めたベクトルだということです.『擬』という字はそんなことを意味しています.そのうち擬テンソルをすると,擬ベクトルの意味がもう少しはっきりすると思います.もう少し数学的に考えると,擬ベクトルとは,違う空間のベクトルを,一つの空間に重ねてきた(写像した)ものだと言えます.この写像の仕方に,私達が介入できる任意性(右手系か左手系か)があるのです.この事情は,外積代数カテゴリーの 軸性ベクトルと擬スカラーの秘密 で明らかにする予定です.

それに対し,座標系の基底を右手系から左手系に,もしくは左手系から右手系に変換しても向きを変えないベクトルを 極性ベクトル と呼びます.極性ベクトルは,力,速度,位置など, 物理的に実体のあるベクトル です.

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座標系の向きを変えてもベクトル本体の向きは変わりませんから,観測者から見た見え方,つまり ベクトルの成分は,座標変換に応じて変わります .座標系の取り方は,私たち観察者がどのように世界を測るか,という私たちサイドの問題であって,世界そのものとは関係のない問題だからです.

外積の公式

極性ベクトルと軸性ベクトルの外積について,次のような関係が成り立ちます.

theorem

(極性ベクトル) \times (極性ベクトル) = (軸性ベクトル)

theorem

(極性ベクトル) \times (軸性ベクトル) = (極性ベクトル)

theorem

(軸性ベクトル) \times (軸性ベクトル) = (軸性ベクトル)

[#]物理的実体のあるベクトルが,座標系とともに向きを変えてしまっては困ります.小さい子供は,どこまでもお月様が自分について来ると思ったりしますよね.地球の中心はいつでも自分の足元にあると信じている人もいます.地動説や量子力学など,全く新しい視点は受け容れられるのに大きな抵抗を受けるものです.自分の視点が相対的なものに過ぎないことを了承するのは,人間にとって非常に難しいことなのでしょう.私たちが認識できるものは仮象に過ぎないでしょうし,何らかの時代のパラダイムから逃れることは出来ませんが,せめてベクトル解析をしているときくらい,自由自在な座標変換が出来る人を目指したいものです.